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石の沈黙を解読せよ
〜(6) ウラルの女神をたどる〜






「ブルー・エンジェル」ではなく。

つ、続いています。
ブルー・エンジェル」と呼ばれるウラルの女神とは、何者か。
とりあえず、私は「ブルー・エンジェル」という名前は無視することにしました。
なぜなら、ロシア語で「青い天使」という意味の名前ならば知らず、なぜ英語なのか、なぜ女神なのに「エンジェル」なのかわからないうえ、検索してみても出てくるのはロシレムの説明ばかりだったからです。
「ウラルの女神」でも、検索してみましたが……、それで手がかりが出るなら苦労しませんね(笑)。
この「ブルー・エンジェルの伝説」も、ロシレムのリーディングとともにあちこちで紹介されていますので、くわしくはそちらをお読みいただくとして、この話は「石の花」で知られるウラル地方の民話がもとになっていると言われています。

「石の花」なら、子供の頃に読んだことがあります。
でも、女神じゃなくて、山の女王とか、書いてなかったっけ……。
あまりに昔のことで、うろ覚えになっていたので、図書館へ行って借り出してきました。
「石の花」は、ウラルの鉱山に鉱山労働者の子として生まれたパーヴェル・ペトローウィチ・パジョーフがまとめた、ウラルの昔話の中の一つです。
借りてきたのは、童心社の「石の花」で、1979年の古い訳のようでした。中には「銅山(やま)のあねさま」「孔雀石の小箱」「石の花」「山の石工」「もろい小枝」の5編が納められています。

「銅山のあねさま」に見るウラルの女神

個人には、この翻訳で正解でした。
タイトルにある「銅山(やま)のあねさま」が、ウラルの女神ということになるようです。
しかし、そこに描かれていたのは、「女神」や「ブルー・エンジェル」という言葉から想像されるような、超然とした存在ではなく、もっと、深くウラルに根ざしている「あねさま」でした。
むろん、この本に収められているのは、約50編と言われるパジョーフの作品の一部であり、ここで描かれる「あねさま」が、ロシレムに宿る女神ブルー・エンジェルだという確証もありません。
しかし、書評で 「苦労して訳しているようだが、語り口がなめらかでない」 と書かれていたこの翻訳は、逆にウラルで語り継がれてきた民話の雰囲気を色濃く残しているのではないかと考え、この「あねさま」を追ってみたいと思います。

まず、個人的な感想を言わせてもらえれば、「あねさま」は、紛れもなく太古からの大地の女神の系譜につながる存在だと思います。
有名なのはバレエや映画にもなった (らしい) 「石の花」や「山の石工」ですが、「あねさま」を考えるうえで、印象深く感じたのは、「銅山のあねさま」でした。
この物語の最後は、こう結ばれています。
「よくないひとがあねさまにいきあうと、不幸がおこる。
が、いいひとがいきあったって、よろこびはすくないんだ。」

たったひとつの話をもとに判断するのは、早急にすぎるかもしれませんが……。
「あねさま」は、試す神。
無条件で慈悲や奇跡を与えるのではなく、人の誠実を問う神。
しかも、「あねさま」の手助けは、与えられた人のためのものなのに、不思議と恒久的な幸せに結びつかないようなのです。

あねさまがもたらす恵み

やはり、祈ればやさしくそれをかなえ、見守り、癒してくれる女神さまのイメージとはちょっと違う……。

おそらくこれは、「銅山のあねさま」であることに由来しているのだと思います。
「銅山」であることは、あねさまが渡す小箱が孔雀石(マラカイト)であったり、その美しい服が緑色であったり、「石の花」で登場するのもマラカイトであるように、「あねさま」を象徴するのは、銅を含む鉱物・マラカイトなのです。本の見返しには、「あねさま」が「孔雀石の精」であると説明されています。

人々は銅を掘り(もちろん他のものも)、そのほかにはマラカイトの加工などをしていました。それは、生活を支えるすべであり、銅やマラカイトをうまく掘り当てられるかどうかは、「あねさま」の気分次第だったのです。
「あねさま」が機嫌を損ねれば、銅は山の奥深くに隠され、掘っても掘っても届かない。
逆に良質な鉱物が出てくれば、それはすなわち「あねさま」の恵み。
……ところが、マラカイトを扱う仕事は、健康を損なうのです。
採掘の仕事は厳しく、切ったりけずったりする石の粉には有毒な銅が含まれているからです。
現在ならば防止設備もあるでしょうが、当時は深刻な問題であったことでしょう。

作中でもそのような表現がいくつも出てきます。
「目に緑の色が光りはじめていた」(銅によって体を損ねたことの表現)
「目も緑、ほおは真っ青、そしてな、しじゅうせきをしていた。」
「石のほこりはどくだ」
……「あねさま」の恩寵には、代償がともなう……とでも言いましょうか。
「代償」と言うのとも少し違うような気がするのですが。

もろともに受け取るメッセージ

当時のウラルに生きた人々にとって、山を掘り、銅を得ることは、おそらく、生きることに直結したことであったと思います。
しかし、農作物などの大地の恵みとは少し違って、銅は健康被害をもたらす側面を持っています。

岩の中から姿を現す、魅惑的な緑の石。(←たぶん。マラカイトや銅の産状を見たことがないので)
彼らは、そこにウラルの山々を支配する女神の姿を見、その贈り物を、石がもたらす危険と共に受け取ったのでしょう。
「あねさま」という言い回しは(原文がどうかは知りませんが)人々とウラルの女神の近さ、「あねさま」の姿は、岩の中から産出する鉱物の美しさ。美しくも妖しい「あねさま」は、そのまま(鉱物を生み出す)ウラルそのもなのだと思うのです。

では、そのウラルから (おそらく「銅山のあねさま」の話の範囲内、あるいはその影響下にあるウラルから) もたらされるというロシレムはどうなのでしょう。

想像に過ぎませんが、ロシレムのメッセージが
「火には火をもって反撃してきた、我々のやり方を改め、
今こそハートの道を歩むときであり、全てのことが愛を通じて行動されるべきとき。
青き女神が宿る石は、互いに結びつきながら、世界中に愛と平和のメッセージを送っている。」

と言うのであれば、その石が、ウラルの女神を介して人の手に渡るということは、

これまでの負の歴史と、
新たな世界へ至る苦悩と責任を、
もろともに受け取れ、

……ということなのではないでしょうか。



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